限界バンドマン日記「反省はしている、後悔はしていない」

THE・五右衛門のボーカル西山竣也の日常

【哲学】生きている意味

こんばんは西山竣也です。

 

突然ですが皆さんは

「そんなの当たり前じゃん!」

的なこと普段から言ってないですか?

はたして、当たり前とはなんなのでしょう。

僕はみんなが当たり前ということは本当に当たり前なのか?そもそもそれってなんだ?

みたいに一つのことに対して疑問を投げかけ、うだうだ考えるのが好きなんです。

ちなみにこれを哲学といいます(多分)。

 

僕は物心ついた頃から哲学的なことをたくさん考えてきたのですが。

同年代には理解されない(そのくせわかったフリはされる)か、厨二病と馬鹿にされる

大人には頭が凝り固まった化石みたいな人が多いので、流されたり、物質的豊かさや社会的地位の話に持っていかれたりする

等のことをされ、昔から非常に憤っているのです(憤っちゃうところが僕のガキな部分)。

 

さて本日のタイトルは

「生きている意味」です。

このことについて説明するためには、まず

「理解とはなにか」を説明する必要があります。

以前「人を理解するとはなにか」という記事を書きましたが、それとは別。

もう少し深くて、ある意味抽象的な話です。

 

結論から言います。

理解するとは「確信すること」です。

おいおい、お前前の記事で

「決めつけんのよくない!」

的なこと書いてたやん!って人もいるかもしれませんが、ここでいう「確信」とは「実感」的な意味合いでの確信です。

細かく説明します。

 

身の回りに当たり前のように科学技術や、教則本などが転がっている僕たち現代人は、うっかり

「理論」の後に「現象」が起こる

という勘違いをしがちです。

ですが「理論」とは辞書で引けばわかる通り、

「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」のことです。

つまり「現象」の後に「理論」があるのです。

そういう意味では僕たち人類は

 

何一つ理解していない

 

とも言えます(理解の定義にもよりますが)

言ってる意味がわからないって方は、ある一つのことに「なんで?」を投げかけ、とことん調べてみてください、そうすると最終的に絶対わからない領域に来るので。

 

唯一わかっていること、理解していることがあるとすれば、それは

「自分が生きている」ということです。

僕たちは自分が生きていることを理解するためにわざわざ理屈をこねくり回したりしません。

「いま心臓が動いてるから生きてる!」とか

「お腹が空くから生きてる!」とかしなくても自分が生きていることを確信しているはずです。

自我があり、考える力がある時点で生きているんです。

デカルトの「我思う、故に我あり」

ってやつですね。

(ちなみに僕はデカルトなんて人のこと知らん時からこの考え方してました)

要するに「生きている」という実感のように、確信していることこそ理解していることなんです。

なんか釈然としない?

そりゃ、そうですよね、

だって

なーーんにもわかってないんだもん、人類。

 

この世の中の大抵のことは粒子だの原子だのよくわからんけども、ミクロの世界で説明できるそうです。でもじゃあなんでそもそもそんなものがあるんですかね。

あったところで、だからなんなんですかね。

 

「生きている意味」とは?

 

それはズバリ!

 

そんなものはない!

 

いやいや、なんだその答え…

って思った人もまあ、聞いてくださいよ。

なにも僕はニヒリズムな訳じゃないんです。(それに近い考え方ですが)

僕はさっき「理解」とは「確信」と言いましたね?じゃあ自分の生きている意味を理解するということは「これだ!」って確信できるものを見つけるってことなんですよ。

 

僕はあまり信じていませんが、

神様みたいなのがいて、その存在に認めてもらうために生きてるんだ!

って確信できたら、それがその人にとっての生きている意味なんです。

「人に愛され、愛すること」こそが生きている意味だ!

って確信できたらそれも生きている意味です。

(理屈をこねくり回さず確信していることがポイント)

 

結局「人それぞれ」ってことなんですが、端的に「人それぞれに生きている意味があるよ」って言うのより説得力がありませんか?

逆に言えば、

「俺には生きている意味なんてない…」って確信している方には生きている意味なんてないんでしょう。

それが悲しいことだとは全く思いませんが。

 

人それぞれ、百人いたら百通りの「生きている意味」があります。それはつまり、各々違う世界で生きているという意味でもあるんです。

だから決めつけよくないよ!まじで!

あと他人と比べるのもよくない!気持ちはわかるけど!

僕の不幸なんてあの人の不幸に比べれば…

みたいに考える必要はありません。

「世界一不幸な人」とは自分のことを「世界一不幸だと思っている人」なんです。

それは逆も然り。

 

幸せになることも自分の心次第なんです。

 

とは言えこれは理想論ですよね、

辛いことあって生きているのがしんどい人には結構厳しい考え方でもあります。

アドラー心理学的なね。

ただ、希望ってやつは自分で捨てちゃうと、相当ラッキーが起こらない限り手に入らないものですから、

自分次第で幸せにもなれる

って考え方も、ほどほどに持っておくと良いかも知れませんね。

 

ちなみに、僕にとっての「生きている意味」

それは…

 

Aちゃんと結婚して、幸せな家庭を築くこと

 

です!

 

きたぁぁぁ!

またきたよ!こいつ!

もうええて!いい加減にしろよお前!

まじで執着しすぎだよ!!

 

って声が聞こえてきそうなので、

新しく考えておきますね。

でも、真面目な話、

楽しいと思えることや、身の回りの小さな幸せってやつは充分に生きている意味と言えますよね。

 

僕にとってはバンドとかね。

 

嗚呼、こんなこと書いてたら夜が明けてしまった。

 

さっき物質的な豊かさや社会的地位についてばっか言及されるのはウザい的なこと書きましたが、まあ、お金がないと生きていけないのも事実だし、哲学者ってニートだったやつもいたらしいので、現代社会においてはあんま必要とされてないのかもしれませんね。

でも、僕は「精神的豊かさ」をどこまでも大事にしたい。

電車の中で早送りでドラマ見たりとか

曲の前奏飛ばしたりとか

そんな愚かなことをするくらいならちんげにストパーかけてTwitterあげて社会的に爆死した方がマシですね。

 

てなわけで皆さん。

自分の大事なものを大事にしましょうね。

どっかの誰かのありふれている理屈はいいから、まずはあなたが幸せになってください。

 

ここらが落とし所かしら。

 

おやすみーーー!

 

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いつだか猫に絡まれた時の写真